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今ふと思い出したのだが
薔薇子がバラナシからカルカッタに戻る列車を駅構内で待っていたときの話である。
この日記はインド入院時、書いたものではない。
今リアルタイムで、池袋のカフェ、ベローチェで書いている。
駅構内にはなぜだか派手な体重計があった。
体重が気になって気になって仕方なかった薔薇子は
それを使用しようと思い、
お金をいれてみたりしたが
全く動かない。
どうやら壊れているらしかった。
薔薇子が
「なんだこれ?壊れてんのかな?」
なんて一人でつぶやいていると
足元から声がした。
瞳を下に動かすと
そこには胸から下がなく、裾がボロボロになった服を着ている
男が、手を足がわりにして近づいてきた。
その男が多分ヒンディー語で
「それ、動かない。
あっちのなら動くよ。
と10メートルぐらい先にある。」
これまたドハデな体重計を指しながら言った。
薔薇子が、
「何?!これ動かないの?」
と英語で言うと
男はうんうん頷いた。
だいたい何か教えてくれるインド人はお金をせびってくるのだが
彼はお金をせびる様子もなかったので、
薔薇子が
「サンキュッ」
と言って
そっちに向かうと
彼は満足げにうなづき、軽く微笑んだ。
結局、10メートル咲きの体重計は使い方がわからなくて、使えなかった。
ただそれだけの出来事だったが、
今思い出して、薔薇子が驚いているのは、
薔薇子が彼に対して何も感じなかったことである。
普通なら、胸から下がない男が話しかけてきたら
ギョッとして、安っぽい同情心やらなんやらを持つはずである。
しかし薔薇子は、本当にその男に
ただの親切なインド人
という以外なんの感情も抱かなかったのである。
あのとき、薔薇子は彼と同等であり、
彼は全ての人と同等であった。
薔薇子はそれになんの疑いもなかった。
当たり前のことである。
人間が本来する振る舞いであり、何も思わないのが普通である。
なぜなら人間はどんな姿であれ、人間ってだけで、どちらが優ってるともなく、何も変わらず、同じだからだ。
しかしなぜ今薔薇子がそのできごとに驚いているのかといえば、
そんな当たり前のことは、たいていの人にはわからないからだ。
薔薇子もわからなかった。
そういう人を見ると、無条件に、くそみたいな哀れな目で見ていた。
偽善という名の差別である。
体の不自由な人や貧困に苦しむ人を見ると、彼らの心持ちは何も知らず
「かわいそう」
だと思った。
もちろん彼らがそれで悲しんでいたり、バックグラウンドが見えてくればかわいそうだが
心の内を何も知らず
「かわいそう」
だと決めつけるのは、
今思えば、くそったれだ。
しかし、それをわかっていても
そう思ってしまうときもある。
それは人間の反射的な思いだから、どうすることもできない。
その思いが人を助けることだってあるだろう。
しかしあの時薔薇子が、ごく自然に
下半身のない彼をなんとも思わなかったのはなんなのか。
そういえば、インドで
「かわいそう」
とか
「哀れだ」
と思わなくなっていった。
なぜなら、体の不自由な人間なんて、そこら中にいたし、
五体満足のインド人は、たいして彼らを気にすることもなく、
彼らは彼らで、自分のことを、何も気にする様子はなかった。
それが当たり前で
普通に、ただ、一人の人間として存在してるだけだから
お互いにやたら気にかけたりしていなかった。
それだけじゃない。
牛やらヤギやら猿やら犬やらが
そこら中に当たり前のようにいて
道をふさいだりしているのだが
それも当たり前だった。
全ての個性が、当たり前の存在としていっしょくたになり、
そこにいた。
だから薔薇子も最初は道を塞ぐ牛にビビっていたが、
インドにきて数時間たっただけで、
道をふさいで邪魔になったりすると
ちょっと手で押して牛の横を通ったりしていた。
なんの疑問もなく。
今、日本に帰って、その記憶が蘇り、
その男に同情しなかったことに驚いている
ということは
またくそったれな、差別心が復活したわけだが
カースト制度が色濃く残るインドで
当たり前のことを当たり前に受け取り、差別心皆無となっていた自分が形成されていたことは
驚くべきことである。
侮れない国、インドだと
今改めて思った。
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