妊活に関する記事です。
子供を欲しい理由…
それは人によって様々です。
私は少し前まで、異常なまでに子供が欲しくて欲しくてたまりませんでした。
その時に、自分が欲しい理由として思っていたことは
・子供が大好きだから
・自分の子孫を残したいという生物学的な本能があるから
・愛する旦那との愛の結晶が欲しいから
・旦那さんが子供と接している姿を見たいから
・私の両親や義理の両親を喜ばせたいから
などでした。
また30を超えて年齢的に焦っていて、より欲しいという気持ちが高まったこともあると思います。
しかし、先月の化学流産の後、冷静になって思うことは
私が子供を欲しい本当の理由が
何も生み出すことができていない何者でもない自分を、子供によって解消したいから
ということだったのではないかと気づきました。
何者にもなれない自分を母親になることで紛らわそうとしていたのです。
母親になって子供を何よりも愛することができさえすれば、自分の人生に満足できると思ったのです。
私は昔からクリエイティブなことがしたいと強く思っていました。
何か素晴らしいものを残したい
人の心を動かすようなものを残したい
そんな気持ちを持っていたにもかかわらず、
そうできるような人生を歩まずに、
自分の意とは別の方向にいく道を常に歩んでいたと思います。
そうなったのは自分が怠惰だったから。
私は教師を長年していました。
教師になったのは私の親の願望でした。
親に逆らうことはとても面倒臭い。
言うことを聞いて教師になれば、親は満足するし、食べていけるお金は手に入るし、周りからも褒めてもらえるし、こんなに楽なことはありません。
もちろん教師は教師で授業を作ったり、部活動に勤しんだり、クリエイティブなことはあると思います。
しかし、私が求めているものとは違いました。
だから教師をしながらも、どこか物足りない何かを感じていましたし、自分の人生を間違って生きている事には気付いていました。
そして結婚を機に、私は教師をやめました。
しかし怠惰な私は、やめても何も自ら行動する事なく、何も生み出さず、どこか自分に絶望しながら、毎日漫画や本やSNSや映画やテレビを眺めてはそれらを消化するだけの日々。
何を見ても、100パーセントは面白くないんです。
「こんな漫画を描ける人はすごいな。こんな映画のストーリーを考えられる人はすごいな。」
何を見ても、自分が吸収したものを創り出す人への畏怖の念と、その人たちに比べて自分が何もしてないことの焦りを感じるのです。
そんな何者にもなれない、この世の中では空気のような存在の私に嫌気がさしました。
そして子供を欲するようになったのです。
母親になれば、母親業で忙しく、自分に絶望している時間なんかなくなるだろう
子供という宝物を生み出せば、他に何もいらなくなるだろう
母親をしているだけで、周りからは褒められるだろう
子供が生きがいになってくれるだろう
「母親」というアイデンティティが手に入るだろう
そんなことを本当は考えていたんだと思います。
私にとって子供は、幸せへの近道の切符のようなものだったわけです。
そんな不純な理由を考えてないふりをして、本音はそこに隠されていました。
私は2回妊娠しますが、2回とも流産します。
「何も生み出せないどころか、子供すら産み出せないな私は。」
と自分に悪態をつきながら少し笑ってしまったのですが、
何も生み出せない私が、子供を産み出して良いわけがない
そんな事に気付いたのです。
それに気づかせてくれたのは、2回目の化学流産です。
きっとこんな不純な動機で、子供を産んだところで、
私は母親になっても、きっとずっと自分自身に悩むと思います。
「子供はいるけど、何も生み出せない空気のような私」に悩むのです。
きっと怠惰な私は他に何もアクションを起こさず、母親という立場に安住してしまうのだと思います。
「母親業で忙しいから」ということを理由に他にクリエイティブなことを何もしないくせに、きっと自分に絶望するのだと思います。
もちろん世間の母親が、物凄い労力と時間をかけ、悩み苦しみながら、人を産み育てるという偉業を成し遂げていることを軽視しているわけではありません。
ただ、自分自身に自信もなく、自分を褒めることができないうちは母親になるべきではないなと私個人として思ったということです。
もちろん子供は欲しいです。
我が子を抱くという夢は消えません。
子供との未来をワクワク楽しみたい。
だから、子供を逃げの理由にしたくない。
私が母親になるのは、自分が納得できることをするようになってから。
その一歩として、今の気持ちを形にしておこうと思い、この記事を書きました。
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